「俳句」を始めて2年ほど経ちました。
2022年夏頃からはネット句会に参加させていただいています。
俳句歴2年の私が俳句について感じていることを書いています。
目次
俳句好き
俳句が好きです。
テレビ番組の『プレバト!!』はほぼ欠かさず観ています。
ここ数年は視聴だけでなく作句もしています。
始めた当初から俳句投稿サイトやテレビやラジオ番組への投句もしていました。
今年に入ってから投句は一切止めています。
2022年の夏からはネット句会にも参加するようになっています。
また、2022年10月か11月か、そのくらいで俳句歴が丸2年になっているかと思います。
正確にいつから始めたか覚えていないですけど、確かそのくらいです。
今は3年目ですね。
俳句について思うこと
年末ですし、ちょうど2年経ったこともありますし、俳句や俳句界に触れて思うことを書いてみます。
思いついた順に書いていて、構成も何もあったものではないと思います。
読みにくい文章だったら申し訳ありません。
自分の俳句の実力
今、自分の俳句の実力はどのくらいか。
それを知りたくて、俳句投稿サイトに投句したりネット句会に参加したりしていました。
上述したように現在は投稿サイトには投句していません。
おそらく下手ではないけど特別上手くもない、というのが今の私の立ち位置だろうと認識しています。
中の中、大甘で見積もって中の上くらい。
今はむしろ、詠みより読みの力が足りていない感があります。
自分で俳句を作るよりも、他の人が詠んだ俳句を読み取る技術や心が弱い。
どちらも弱いですが、より弱い。
選評は怖い
ネット句会での選評は怖いです。
自分の力が試される怖さ、下手と認めざるを得ない怖さもあります。
しかしそれ以上に、特に私はネット句会に参加していることもあって、自分の書いた評で相手を傷つけてしまわないかが怖いです。
ネットは相手の顔が見えません。
自分では気をつけているつもりでも、言葉だけでは感情を乗せきれず、言いたいことが相手に伝わっていない不安感が常にあるのですよね。
ネットでは、そのやり取りも相互というより一方通行になりがちですし。
それがずっと懸案です。
このことは以前このブログで何度か書いているかと思います。
来年以降も懸案であり続けることでしょう。
庶民を生きている実感を詠う
私が作句をする上で大切に思っていることがあります。
それは俳句を始めた当初から漠然と思っていたことなのですが、先日、ある俳句関連の本を読んだところ、その私の思っていたことが言語化されていました。
それは『17音の青春 2022 五七五で綴る高校生のメッセージ』という本です。
本書の選者は宇多喜代子先生、大串章先生、恩田侑布子先生、長谷川櫂先生、復本一郎先生です。
錚々たるメンバー。
内容は受賞した俳句だけでなく、選者の先生方の会話が収められています。
鑑賞や選評理由などのやり取りが。
その中で大串先生が仰っていた言葉がそれです。
最近の俳句はだんだん難しくなってきていて、俳句は知識で成り立っているように思う人が多くなっていますが、ややついて行けないところがあります。
(略)
俳句というのは庶民が生きている実感で詠っていくというところに根源があるような感じがします。
もちろん知は大事です。知がないと全くの時代遅れの文学になってしまうけれども、知を俳句の表面であまり表すのは何となく違和感があるのです。
上記引用部の箇所です。
本書46ページに書かれています。
本当、仰るとおりだよなぁと感じます。
俳句歴わずか2年の私が先生と同じように感じているなんて、さすがにおこがましいですか。
申し訳ありません。
でも感じていることは引用部に近いと感じたことは事実ですのでご容赦を。
技術の使い方
大串先生の「俳句というのは庶民が生きている実感」というご発言。
これを実践されている現代の俳人がいらっしゃるかと考えたところ、思い当たる方がお二人いらっしゃいました。
私が勝手にそう思っているだけで、先生や皆さんから見たら違うかもしれません。
思いついた俳人のお一人は「小野あらた」さん。
数年前、『NHK俳句』の小澤實先生が選者の回にリモート出演されていて、そこで初めて小野さんのことを知りました。
まだ私が俳句を作り始める前のことだったはずです。
水筒の暗き麦茶を流しけり
テーブルに七味散りをりかき氷
味噌汁と聖夜の残りものを食ふ
例えば上記3句。
小野さんの生活や人柄がよく見えるよい句だなぁと思え好きな句です。
と言いますか食べ物ばかりですね。
先のNHK俳句の番組でも、小澤先生が食べ物のことを指摘していらっしゃったかと記憶しています。
もうお一人は「長嶋有」さん。
長嶋さんも『NHK俳句』にゲストや選者として出演されていました。
見られれば歌うのやめる寒の明け
水筒の麦茶を家で飲んでおり
夏シャツや大きな本は置いて読む
こちらも生活や人生が感じられ好きな句ですし、好きな俳人です。
お二人とも、技術が高いはずなのに技術をこね回したり技術をひけらかしたりする感じはなく、比較的素直に生活を詠まれたものが多い印象を持ちます。
私のようなレベル帯の人間にもわかりやすい。
読者にわかりやすいと思わせる句を作ることも技術でしょう。
技術はこう使いたいものだと思わされます。
長嶋さんの句はフィクションも多そうですが、不思議と嫌な感じはないですね。
これも技術でしょうか。
見習いたい。
私は生活や人生を詠んでいるのか?
私はそれができているでしょうか。
あんたは「庶民を生きている実感」のある俳句を詠めているのかと。
正直に申し上げて、それはわかりません。
自分で自分の句はわからないです。
ただ、自分ではそういう句を作ろうと心がけています。
概ね、技術だけの句、頭の中だけの句、雰囲気だけの句は作っていないつもり、たぶん。
句会の兼題次第では、頭の中の句を作らざるを得ないこともあるでしょうけど。
句会で私の句を読んだ人に一度伺ってみたいところです。
私の句から生きている実感を感じられるでしょうかと。
いや聞けないですが。
価値観は絶対ではない
ここまで書いたことも、あくまで私の価値観で書いています。
皆さんとは価値観や考え方が異なることも多くあるでしょう。
自分の価値観が絶対など微塵も感じません。
価値観の違いは句会で毎回感じます。
私はよいと思って選んだ句が他の人から全くと言っていいほど評価されない、逆にどうだろうと思う句が他の人からは絶賛される。
自分で作った句も同じで、会心と思って提出した句が全然評価されなかったり、逆に自信を持てない句が絶賛されたり。
そういうことは日常茶飯事で、そうでないことの方がずっと少ないです。
でも思うことは、その「思うとおりにならない感」が句会の面白さなのだということです。
面白さは「ゲーム性」と言い換えてよいかもしれません。
句会で点数をたくさん取れた句はよい句かと聞かれると、そうとは限らないですね。
それはやはり価値観は人それぞれだから。
なので個人的に点数は大した意味がないと思っています。
もし句会に出て自分の句の点が低かったとしても、点が1点も入らなかったとしても、詠んだ人はこれが詠みたかったのだと堂々としていればよいと思います。
自分が選に取った句が周りからどんなに評価されていなかったとしても、自分はこの句が好きだと堂々と言えばよいと思います。
おわりに
ということで、俳句歴2年になったので俳句について思っていることを書いた記事でした。