漫画『銀河鉄道999』の12巻を古本屋で購入しました。
少年画報社の文庫版で、文庫の12巻はアンドロメダ編の最終巻です。
スリーナインは子どもの頃に漫画の単行本を途中まで読んでいたのですが、最終話を知らずにこの年代まで来てしまいました。
死ぬまでに最終話を読みたいと思っていたので、子どもの頃からの念願が叶いました。
目次
『銀河鉄道999』
『銀河鉄道999』についてです。
『銀河鉄道999』(ぎんがてつどうスリーナイン、Galaxy Express 999)は、松本零士作のSF漫画、およびそれを原作としたテレビアニメ番組、アニメ映画である。
銀河鉄道999のWikipediaには上記引用部のように書かれています。
tvk『銀河鉄道999』再放送
2020年7月5日より『tvk(テレビ神奈川)』にて、アニメ版『銀河鉄道999』の再放送が始まりました。
放送日は毎週日曜日、放送時間は23:00から23:30です。
放送が開始されるときにも当ブログで記事にしています。
アニメ10話「トレーダー分岐点(後編)」と16話「螢の街」、48話「永久戦斗実験室(後編)」、60-61話「大四畳半惑星の幻想」、96話「フライング・クロ 前編」の感想も書いています。
最終話を知らない
実は私は『銀河鉄道999』の最終話を知りません。
以前ブログに書いていると思いますけど、幼い頃に祖父母の家に、なぜか1巻から12巻ほどまでスリーナインの単行本がありました。
なので物語の序盤から中盤くらいまでは当時読んでいました。
つまり物語の終わりを知りません。
アニメもしっかり観た覚えがなく、最終回まで観ていません。
先ほど書いたように、記事作成現在tvkでアニメの再放送がありますから、アニメ版の最終話はそこで必ず見るつもりです。
しかしおそらくですけど、アニメ版と原作マンガとで最終話は、最終回前もかもしれませんけど、物語が異なる展開を見せるのではないかと予想しています。
アニメ作品はたいてい、原作と完全には同じ展開にならない認識があるからです。
アンドロメダ編
この記事で書いていることはあくまでも「アンドロメダ編」に関してのお話です。
Wikipediaなどを見ると「エターナル編」なる、これは続編でしょうか、そちらも存在するようです。
「最終巻」とか「最終回」とかと書いている部分も、アンドロメダ編の最終巻や最終回のことを指しています。
ご了承ください。
そのエターナル編は個人的には読まなくてよいかなと思っています。
何だか蛇足感がひしひしと伝わってくるので。
私にとってのスリーナインはアンドロメダ編で終わり、それでよいです。
文庫版『銀河鉄道999』12巻(最終巻)
前置きが長くなりました。
先日、文庫版の『銀河鉄道999』の12巻を購入しました。
文庫版は12巻が最終巻のようです。
先ほども申したとおりアンドロメダ編の、ですね。
画像が12巻。
メーテルが涙を流しています。
メーテルには涙がよく似合う。
表紙の絵は後年、文庫版のために描き下ろしたものでしょうか。
メーテルのテイストが、イメージと少し違っている気がします。
いえ適当に言っているだけです。
初版ではありませんでした。
文庫版ですからあまり意味はないですね。
最終話を読み終えた感想
文庫版『銀河鉄道999』12巻、アンドロメダ編の最終巻最終話を読み終えた感想です。
ここからはあくまでも私の読んだ感想を書きます。
書かれていることが正しい認識とは限りませんし、間違った知識をもとに書いてしまった情報もあろうかと思います。
情報を鵜呑みになさらず、ご覧になってください。
また、重大なネタバレも含まれている可能性がありますので、大丈夫な方のみ下方スクロールをお願いいたします。
肩透かし
正直に申し上げると、若干「肩透かし」を食らった思いでした。
いえ、物語の序盤から結末はわかるじゃないですか。
結末とは「鉄郎はアンドロメダに着いても機械化をしない選択をして、地球に帰るんだろうな」ということですね。
子どもの頃からそう思っていました。
おそらくほとんどの読者が私と同じように感じていたと思います。
それでも、具体的に鉄郎にどのような人や出来事が待ち受けていて、それに対して鉄郎がどのような思考をして、どのように成長し、そして結論づけたか。
それらは実際に読んでみないことにはわかりませんから、その点読めてよかったです。
では何が肩透かしだったか。
結末するまでの展開が予想どおりすぎたことが肩透かしだったのか。
何でしょうね、自分でもまだよくわかっていません。
もっと劇的でもっとスケールの大きなストーリー展開を望んでいたのかもしれません。
風呂敷を広げすぎ
私がそう思った理由には「風呂敷の広げすぎ」がひとつ、あるかもしれません。
アンドロメダに着くまでにも、摩訶不思議かつ壮大な出来事が数多く起こり、読者の、というか私の、結末への期待感は否が応でも高まります。
キャプテン・ハーロックやクイーン・エメラルダスを登場させたこともそう。
作者の松本零士さんも、連載当初からあの結末を考えていたわけではないと思います。
なので、最終回に向けて、それまでの物語に彩りや広がり、深みを加えるべく、あちこちに「仕掛け」を施したのでしょう。
広げた風呂敷が大きすぎたこと、風呂敷を広げた割にこじんまりとした最終盤に感じ取れたことが、私の感じた肩透かしの一番の原因があるように思います。
道中でこのくらいのことが起こるなら、アンドロメダではさぞかしと、自分の中の期待が膨らみ過ぎていた可能性です。
○○は納得できない
鉄郎は終着駅に着いて、機械化人間になるかどうか。
これが大きな見どころと思っていました。
が、鉄郎は機械化人間どころか○○にされそうになっていました。
機械化「人間」じゃない、犬猫など機械化された「生き物」ですらない。
言い方は悪いですが、詐欺とまで言わないでも、松本さん、それは読者への裏切り行為でしょうと思いました。
鉄郎が決められなかったのではなく、作者が決められなかった。
○○からはそれを感じます。
私が感じた肩透かしの、一番の原因はここかと思います。
はっきり申せば、物語に正面からぶつからず「逃げた」ように見えました。
早足
せっかく物語の最終盤なのに、展開が「早足」に感じられます。
ひとコマひとコマが小さく、セリフも多い印象です。
このことは、これまで書いてきたことと無関係ではないと思っています。
単行本のことを考えてでしょうか、終わりがいつまでと予め決められていて、それに話を合わせるとああなるのだろうという詰め込みを感じました。
なので風呂敷を畳みきれていなかったり、肩透かしだったりを私が感じたのだろうと。
メーテルの正体
最終巻で謎の女「メーテル」の正体がわかりました。
メーテルがなぜ鉄郎をアンドロメダへ誘ったのかもわかりました。
いや、わかったつもりになっているだけで、わかっていないのかもしれませんけど。
私の肩透かしの理由はここにもあるように思います。
メーテルにはもっと劇的な「何か」を望んでいました。
こちらも旅の道中で様々なメーテルを目の当たりにしたことで、私の期待が膨らみすぎた結果でしょうね。
しかし、別の意味での「メーテルの正体」はわからずじまいでした。
それは「メーテルは『機械化人間』かどうか」です。
記憶が正しければ太陽系を出る直前、冥王星だったと思うのですが、メーテルが氷の大地に手と膝を付き、涙を流していたシーンがあったはずです。
あれは何だったのでしょう。
子どもながらに私はあそこにメーテルの「本当の身体」が眠っているのだとばかり思っていました。
メーテルは機械人間だとばかり。
実は最終話でメーテルは鉄郎に正体を晒しています。
が、鉄郎は見ることを拒みました。
なので読者もメーテルの真の姿がわからないまま。
何でもかんでも謎は解明されなくてよいと思っていますから、メーテルの正体は謎のままでよいですけど。
メーテルの成長物語
今回読んでいて思ったことの一つは、本作は長い銀河の旅を通して、少年・星野鉄郎の成長を描いているものであると同時に、メーテルの成長物語でもあったのだなということです。
地球人の感覚からすれば気の遠くなるほど長い年月を、彼女は自らに課せられた「務め」を果たすことに費やしてきたのでしょう。
務めとは「○○のために△△をアンドロメダへ××てくる」こと。
と同時に「□□のために△△をアンドロメダへ××てくる」こと。
その間にあって、メーテルは長年葛藤と戦ってきたようです。
ところが今回の鉄郎との旅によって、彼の存在と成長によって、彼女の葛藤に一つの答えが見い出され、○○にその答えを示すべく行動に移していました。
その結果、鉄郎は地球に帰ることができています。
メーテルは鉄郎が好き?
鉄郎は、メーテルをそういう行動に移させるだけの「器」を持つ人物だった。
そうとも言えるでしょうか。
そういう行動をしろと、鉄郎がメーテルに命令したという意味ではなく、「『あの』メーテルがそうしたくなるだけの人間的魅力を星野鉄郎は備えている」のですね。
鉄郎は特に序盤、メーテルに対して「母」を求めているところがあるようです。
実際に母と外見がよく似ていることが理由の一つでしょう。
旅の途中からはそればかりでなく、一人の女性として、つまり対等な立場での愛が芽生えていたかもしれません。
他方、鉄郎にとってメーテルはあまりに美しすぎる、または大人すぎると(私が読んだ範囲内では)感じている節もあります。
それはメーテルが母と瓜二つなだけでなく、自分が彼女より年下であることだけでなく、「自身の外見への劣等感」もそうさせているだろうと感じます。
作中、外見のことをよく揶揄されますし、自身もそれを自覚していますものね。
それでもぐっと歯を食いしばり、自分の決めたことを貫く、そういう人です。
一方、メーテルはどうだったか。
旅の序盤こそ「務め」のための単なる一往復でしかなかったでしょうか。
ところがこちらも二人旅を続けていくうちに、鉄郎に魅せられ、男としても見るようになっていっているようです。
意志の固さと、本当の強さ・優しさとを持つ鉄郎の「男らしさ」に惚れたということ。
ここから少し脱線:
先ほどの鉄郎の外見についてもそうですけど、時代が時代ですから「男はこうあるべきだ観」「女はこうあるべきだ観」は現在より強いです。
2020年代の価値観で作品を測らない方がよいでしょう。
:脱線ここまで
それに広大な宇宙に3丁でしたっけ、しか存在しない「戦士の銃」を携帯し、ハーロックやエメラルダスからも一目置かれる存在なのですから、メーテルが惚れるのも無理はありません。
最後に別れた理由は?
実は、鉄郎が大アンドロメダから地球へと戻ることになる、その帰りの銀河鉄道にはメーテルは乗りませんでした。
画像は最終話の最後のコマです。
ご覧のとおり鉄郎の向かいの席に、いつもあるはずのメーテルの姿がありません。
一人で地球へ帰ろうとしています。
車掌さんはいるでしょうけど。
画像をご覧になるとおわりのとおり、最終ページに折り跡が強くあって嫌なんですよね。
今にも外れそうなくらい状態がよろしくない。
それにしてもこの鉄郎の表情が何とも言えないですね。
呆然としているのでしょうか。
これからも大変な冒険が待ち構えているはずですけど、そんなことよりメーテルがいないことに意識を持っていかれている感じ。
メーテルがいないのですから、往きよりずっと大変な旅になるはずなのに。
どうしてメーテルは鉄郎と一緒に地球への旅をしなかったのか。
鉄郎を助けて逃したのに、鉄郎のことを好きであろうはずなのに。
その理由はおそらく画像のコマです。
メーテルは鉄郎の「少年の日の心の中にいた青春の幻影」だからです。
言い換えると、鉄郎が立派な青年に成長したからだと私は思っています。
自分が付き添う必要がなくなったとメーテルは考えたのでしょう。
しかしこれはある意味で理由になっていないようにも思います。
往きは「務め」があったから一緒に旅をしていたのですよね。
大アンドロメダでその務めから解放されています。
それなら一人の女、一人の人間としてこれからをどう生きるか、生きたいかを考えてよいと思うのです。
惚れているなら鉄郎と一緒にいればよいのに。
鉄郎だってそれを望んでいるのではないでしょうか。
それに鉄郎の今後の願いはおそらく「地球を大アンドロメダのようにしない」ことになるでしょう。
アンドロメダで採ったメーテルの行動は、今後の鉄郎の願いにも通じるものですから、今後も一緒に旅をしても何ら差し支えないかと思うのですが。
そういうことを含め色々と考えた末の鉄郎との別れなのでしょう、たぶん。
青春や時間の不可逆性
最終コマのあの、鉄郎の何とも言えない表情、これは素晴らしいと感じています。
鉄郎の、メーテルと過ごした時間を、言い換えるともう二度と戻ってこない青春の輝き=時間の不可逆性を表しているようです。
同時に、青春そのものと、その余韻を、鉄郎だけでなく読者に喚起しているようでもあります。
先ほど書いた肩透かし感も緩和されるくらい、よいコマです。
満足。
おわりに
ということで『銀河鉄道999』の文庫版12巻を購入し最終話を初めて読んだ感想を書いた記事でした。
アニメ版ではまた異なる結末になっている可能性があります。
放送を観るのが尚一層楽しみになりました。