「俳句」が趣味の一つです。
俳句を始めて、そろそろ3年経つと思います。
いつから始めたかを記録していなかったので、正確にはわからないですがおそらく。
実力は初級者、あるいはせいぜい中級者に足を突っ込もうとしているくらいでしょう。
ここ1年ほどは幾つかの「インターネット句会」に参加しています。
句会を重ねる、あるいは句歴を重ねることによって、私自身得てきた俳句に関するあれこれを書いていこうと思います。
主に句会で学んだ「俳句のコツ」なり、私の中に育ってきた「想い」なりです。
今回は「感覚を大切にする」です。
目次
俳句
「俳句」が趣味の一つです。
俳句関係のテレビ番組を観ています。
作句を始める
2020年の秋の終わり頃からだったでしょうか、自分で俳句を作るようにもなりました。
俳句を始めてからしばらくはwebサイトの『俳句ポスト365』や、テレビの『NHK俳句』、ラジオの『文芸選評』などに投稿をしていました。
特選はなかったですけど、入選などにはそれぞれちょいちょい選ばれていたようです。
しかし、人に評価されたいから、つまりは承認欲求や自己顕示欲のために投稿している訳ではないよな、とずっと悩んでいました。
2023年に入った頃と思いますけど、投稿する意味はないと判断し、以降全ての投稿を止めました。
インターネット句会
2022年の夏頃からは「インターネット句会」に参加するようになりました。
今は3つくらいですか、句会に参加しています。
先ほどと同じ理由、世間に認められたい訳ではないので、基本的にはネットに制限なく公開できるタイプではなく、参加者だけ見ることのできるクローズドの句会に。
オープンな句会にも1つだけ参加しています、上にリンクを貼った記事がそれ。
私がネット句会をするきっかけになった句会さんなので大切です。
もう少し参加数を増やしてよいかなと思っています。
こんな私が合いそうな句会があったらぜひ教えてください。
結社には入るつもりは一切ないので、そういう条件や勧誘のない句会を。
リアル句会は今のところ考えていません。
コミュニケーションがとても苦手なので。
メンタルの問題もあり耐えられないと思います。
私の俳句歴は上記のような具合です。
句会で学んだこと
今回も前置きが長すぎました。
その3年弱の俳句歴から、主に句会で学んだ「俳句のコツ」を書いていきます。
コツと言うとあれですね、学んだことです。
あるいは、俳句や句会を経験することで、私の中で育まれた「想い」もあります。
今回は「感覚を大切にする」です。
正しい文法・用法
正しい文法なり用法なりを用いること、これは大事なことと思います。
俳句は読者に読んでもらうものでもあるからです。
言い換えると、その句は作者のものであると同時に、読者のものでもあるからです。
読者が読み解けなければ、あるいは映像化できなければ、単なる自己満足や自己陶酔であり、俳句作品としては失敗していると言えます。
世間的に正しいことが私的に正しいとは限らない
一方で、正しさばかりに捕らわれない方がよいとも感じています。
文法的に間違っている、より適した表現があるとしても、俳句の作り手としては間違った表現でも正しい表現より「しっくりくる」なら、それを貫いていいと思っています。
なぜかと言うと、なんでしょうね。
考えたことがないですが、俳句は文芸だからでしょうか。
俳句は国語の試験ではないですから、必ずしも正しいだけをすることはないと思っているのかもしれません、無自覚ですけど。
唯一性を求めて俳句を作るので、そのために必要なことと判断されれば、正しい文法でないとわかっていても使うことがあるのかも。
例えば一時期、私の中で「たる」で句末に据えることが流行っていました。
たるは連体形ですので、直後に名詞などの体言が続くことが考えられます。
たるで句を終えてしまうと切れがない・切れが効いていない句と判じられるとは、作句時にわかっていました。
「たり」で終えた方が文法的には正しいでしょうし、「たり」の切れが詠嘆として機能するであろうと。
つまり「意識的」に正しくはない文法を採用したのです。
しかし、私はその句に関しては「たる」で終えた方が、この句には合うし、言い切らない余韻ができ、また、口にしたときの流れが気持ちよく感じられたので、そのままにして句会に提出しました。
案の定、句会では何人かからその点を指摘されていましたが、わかった上で好意的に受け取ってくださった方もいらっしゃいました。
私自身、今でもその判断が間違っていたとは思っていないです。
ただし、先ほど書いたように、読者に伝わらなければ、それは単なる自己満足でしかない点は忘れないようにしたいですね。
その自覚をもって作ったか句会に提出したか、は大事なことかなとは思います。
オリジナルの文法や用語などを作るのは?
ただし、日本語の文法や用法を「完全無視」して、自分で文法や用法、用語、略語を勝手に作るのは難しいでしょう。
これは外国語の俳句ではなく日本語俳句に関してですが、あくまでも俳句は日本語ですから、日本語の文法や用法に沿ったものである必要があるはずです。
先ほど書いた「ゐたる」にしても、日本語ではありますからね。
難しい理由は、先ほど書いたように、その句は作者のものであると同時に、読者のものでもあるからです。
他人に意味が伝わらなければ失敗と言えるから。
これをする人は、俳句を始めたばかりの人を中心に案外いらっしゃいます。
おそらくですけど、五・七・五の定型に収めなければという想いが強すぎるのでしょう。
収めるために略語を作ったり単語を端折ったりする人が。
広く伝われば問題なしと判断されることもあるでしょうけど、なるべく自分で判断しない方が無難でしょうね。
こうすべき論
文法的に正しいことにガッチガチに拘泥している人って、この業界には結構います。
少なくとも私にはそう見えます。
よくあるのが切字「けり」の使い方です。
(作者の主観による)過去の事実や経験(回想ではなく)である、過去から続く存在の発見である、過去の理想化である、などとよく見聞きします。
でも、そういうことに捕らわれすぎなくていいと私は思います。
「かな」は明るそう・優しそう、「けり」はちょっと暗そうとか、この句の音の流れ的に内容的に「けり」が合いそうとかそういう、いわば「ニュアンス」や「感覚」にもっと頼っていいのではと。
もちろん「けり」を正確に使えれば、その方がカッコいいことはカッコいいでしょうけどね。
そういう文法のことだけでないです。
例えば、写生に徹するべきとか、定型に収めるべきとか、季語が主役であるべきとか、そういう「こうすべき」的なことを言ってくる人がこの界隈にはたくさんいます。
いてもいいですけど、そういう人に限って直接的に言わず、でも他の選択を許さないような言い方をしてくることも、往々にしてあるのですよ。
それらについても、個人的にはあまり難しく考えなくていい思っています。
特に俳句初心者の方やこれから始めようとする方には、もっと気楽にやりましょうと言いたいです。
音数については「17音を目指しましょう」くらいでいいです。
無理やり17音に収めなくていい。
写生にしてもそう。
どうせ写生に徹したところで、今度は類想とか月並みとか言われるのがオチです。
こちらも難しく考えず「何のどこに目が止まったか」、それを文字に起こすくらいの感覚でいいと思います。
何なら本やネットなどから得た情報や、自分の中に培われた「観念」でも全然OK。
虚子など偉人にも観念的な句はたくさんあります。
感動を形にしなくても全然OK、むしろ感動なんて書かなくていいくらい。
季語が主役という点も、まるで世界が季語によって成立しているかのように言ってくる人いるのですよ。
季語のところを歳時記と言い換えてもいいかもしれません。
しかし、それではあまりにも季語や歳時記に頼りすぎているように、私には感じられます。
季語が主役でなくても、何なら季語を使っていなくても、その句に「季感」「季節感」が出ていればOKくらいの気持ちでいいと思います。
もっと言えば季感すらなくてもいいです。
本当に作りたいネタがあるならそれでいい。
その場合、俳句ではないと指摘されたって気にしないくらいの心持ちでいる必要はあるでしょうか。
自句で例えると
自句で例えを出しておきましょうか。
このブログではあまり私自身の句を披露していませんからね。
白パピコ咥へつのたり漕ぎゆけり
例えば上記のような句を2023年の夏に作り、ネット句会に提出したことがあります。
原句は「咥えつ」としていて、「咥へつ」ですよと指摘されたことは内緒。
白パピコが「氷菓」の代わりにした句ですね。
厳密にはこちらは「無季」の句でしょう。
ただ季節はどうでしょう、たいていの人が「夏」を思い浮かべると思います。
白パピコは夏季に発売されるみたいですし。
そして「咥へつ」の「つ」は本来「つつ」だから使うべきではない、という意見が出てくる可能性があります。
言葉遣いが正しくないという意見です。
と言いますか、句会で指摘されました。
こちらについても、意味がわかればいいじゃんと思っています。
「つつ」を「つ」とする句はまま見られますから、一定数あるのなら慣例として共通認識を持つことができるでしょう、決して独りよがりの自分ルールではないでしょう。
バターをバタとするなど、最後の長音を省略することも、これに似ているでしょうか。
文法・用法的に正しくなくとも、明確に映像化されていることの方がずっと大切だと、私には思えます。
ここで私が言いたいことはこういうことです。
ちなみに提出した句会では、私を除いた参加人数9名のうち数名が上記の句を採ってくださいました。
こういう句を作っても許容して高く評価してくださる人もいるのです。
当然、無季ではと指摘する方もいました。
そこは人それぞれの判断なので問題は一切ありません。
皆が皆、意見が同じはずがないですから。
「べき」には理由がある
先ほど書いた、写生に徹するべき、定型に収めるべき、季語が主役であるべきなど「こうすべき」的なこと、これらは「王道」である点は忘れてはいけないと思います。
そういう人の言葉は、これまでの俳句の歴史の中で育まれた知識ではあるので。
写生に徹することでかえって世界が確定する強さがありますし、五・七・五の韻律は安定感抜群ですし、自ら主観を述べずとも季語が語ってくれます。
それを「完全に無視」するのも、それはそれで乱暴とは思います。
もっと自由に気楽にやろうよ
「べき」を頭に置きつつも、堅苦しく考えすぎずに行きましょう。
俳句は文芸、言語を用いた芸術なのですから、もっと自由にいたいものです。
そういうことを、ここで言いたいのです。
そして私自身ももっと気楽にやりたいなと思っています。
以上です。
おわりに
ということで、私自身が俳句で学んだ俳句の楽しみ方や培った考え方を書いた記事でした。