ディスディスブログ

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2021年現在、私が好きな俳句11選をご紹介。有名な句ばかりです

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私が好きな「俳句」を11句ご紹介します。

有名な句が多いと思います。

 

目次

 

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俳句好き

私は「俳句」が好きです。

 

dysdis.hatenablog.com

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テレビ番組ではEテレ『NHK俳句』やTBS『プレバト!!』を観ています。

 

dysdis.hatenablog.com

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ラジオ番組でも『文芸選評』や、『R1 NHKラジオ第1』 で放送されている番組『らじるラボ』の火曜日の1コーナー「ラボ句会」を聴いています。

ラボ句会へは投句をして、ありがたいことに何度か採用されました。

記事作成現在トータル4回採用されているかと思います。

 

dysdis.hatenablog.com

 

愛媛県松山市が運営している、俳句投稿サイト『俳都松山 俳句ポスト365』にも、近ごろは投句しています。

俳句ポスト365のルールが変更されてしまいましたが、それまで4回連続で入選していました。

ルール変更後は一度も採用されていません。

 

好きな俳句

この記事では、私がとても好きな「俳句」をいくつかご紹介します。

皆さんご存知の有名句が多いはずです。

 

有名な俳句しか知らない

皆さんご存知の有名句が多いと書きました。

その理由は私が有名な俳句しか知らないからです。

 

今回ご紹介するのは江戸時代や、明治時代から昭和初期にかけて活動された方が多いでしょうか。

俳句を時代で分けて見ていないので詳しいことはわかりません。

 

一方、昭和中期以降の俳人の句はほとんど知らないです。

それは貧乏のため句集を購入するお金がないことが何よりの理由でしょう。

青空文庫やネットで読めるものから読みたい気持ちもあります。

ただこんな生活をしていても、日々に追われてなかなか句集を読む時間を持てないですね。

俳句を詠むことはそこそこしているつもりですけど。

有名な俳人の句を読み込む時間をもっと増やしたいです。

 

前置きはこのくらいにして、私の好きな俳句を具体的にご紹介していきましょう。

ちなみにご紹介する俳句の順番はある程度年代を意識しているものの細かいところは適当です。

思いついた順と思っていただいて差し支えないです。

 

私にとっての良い句とは?

私にとって良い句とはどういう句のことを言うのか。

自分でもよくわかっていません。

感覚的なものなので。

 

ただ、光景が浮かんでくる俳句を良いと思っている傾向はあると感じています。

それは俳句に限らず短歌も詩も小説も、文章は皆そうかもしれません。

 

1. 湖の水まさりけり五月雨

まず1つ目の俳句です。

 

湖の水まさりけり五月雨

 

読みは「みずうみのみずまさりけりさつきあめ」となります。

音を整えるためでしょうか、「さみだれ」ではないのですね。

 

作者は「向井去来(むかい・きょらい)」。

松尾芭蕉の弟子の一人ですね。

 

dysdis.hatenablog.com

 

この句との出会いはごく最近。

「高浜虚子」の「俳句の作りよう」に載っていたのです。

そこで初めて触れて好きな俳句になりました。

 

いつかこういう俳句を詠みたいと思った句の一つです。

 

5月の長雨に湖の水嵩が増してきているようだ。

そういうことを詠まれた句のようです。

この湖は「琵琶湖」を指しているとのこと。

灰色の空の下、蓑笠を身につけた去来が、雨に打たれながら琵琶湖の水面を眺めている映像が、私の脳内に浮かんできます。

 

去来抄/三冊子/旅寝論 (岩波文庫 黄 208-1)

 

2. 梅一輪一輪ほどのあたたかさ

2句目です。

 

梅一輪一輪ほどのあたたかさ

 

読みは「うめいちりんいちりんほどのあたたかさ」になります。


作者は「服部嵐雪(はっとり・らんせつ)」です。

嵐雪は去来と同じく松尾芭蕉の弟子でしたか。

 

小さな梅の花が一輪、また一輪とほころぶごとに、春の暖かさが少しずつやって来ている。

梅の咲き始めということは、時期はまだ寒い頃のはずですね。

1月末とか2月上旬とか、1年で最も寒い頃でしょう。

そんな寒い中でも春を見つけ、ちょっとした暖かさを感じている繊細さ。

一輪の語を繰り返すことで時間経過を表してもいます。

巧みな句だなぁと感じます。

 

芭蕉の門人 (岩波新書)

 

3. 雪の朝二の字二の字の下駄の跡

3句目です。

 

雪の朝二の字二の字の下駄の跡

 

読みは「ゆきのあさにのじにのじのげたのあと」になります。


作者は「田捨女(でんすてじょ)」です。

「でん・すてじょ」と切るのでしょうか、でも「田ステ」なのでしょうし、わからん。

「女」は女流歌人・女流俳人を表す言葉ですよね。

まぁいいか、正しいことはお調べになってください。

 

この句は田捨女が6歳の頃に詠まれた句と言われているそうです。

確かに下駄の跡を「二の字」だと着眼するその思考は子どものそれとも思えます。

二の字を繰り返すことで、足跡が続いている様子を表した技は巧みで、大人が詠んだようにも受け取れます。

 

いずれにしても、神聖さすら覚える白い雪の朝に一人の下駄の足跡だけが続いている、その世界観はとても絵画的です。

あるいは「ソール・ライター」の写真的です。

 

ソール・ライターのすべて

 

4. 春の海終日のたりのたりかな

4句目です。

 

春の海終日のたりのたりかな

 

読みは「はるのうみひねもすのたりのたりかな」になります。

 

作者は「与謝蕪村(よさ・ぶそん)」です。

蕪村は俳人でもあり南画も描いていた人ですよね。

 

この句は大きな自然を詠んでいます。

私は俳句を少し詠む人間ですが、大きなテーマを詠むことへの難解さを感じていて、とてもじゃないですけど詠めません。

しかしこの句は、海を見ている人や海を思い出している人の心象を的確に捉えているように思います。

蕪村はこういった大きなテーマを詠む感覚に長けている人の印象です。

 

のどかさが生まれているのは「のたりのたり」と擬態語を繰り返すところでしょう。

のたりのたりの意味を正確に言語化することは難しい、でも不思議とニュアンスは伝わります。

終日とは「一日中」の意味。

一日中のんびりしている、のんびりしたいなと思っている。

この春感。

リフレインは韻律にもリズムを生み出しています。

 

私もいつかこのような俳句を詠めるのでしょうか。

いつか詠みたいものです。

 

蕪村句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

5. 雪とけて村いっぱいの子どもかな

5句目です。

 

雪とけて村いっぱいの子どもかな

 

読みは「ゆきとけてむらいっぱいのこどもかな」になります。

 

作者は「小林一茶(こばやし・いっさ)」です。

 

何ですか、この解放感は。

長く厳しい冬の寒さが終わりを告げ、我慢の暮らしを続けていた村の子供たちが、文字通り解き放たれた瞬間を見事に捉えています。

子どもたちだけでなく、親も、村の人たちからも笑みが浮かんでいることでしょう。

「村いっぱい」が効いています。

 

いや大好きなんですよねぇ、この句。

 

一茶句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

6. 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

6句目です。

 

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

読みは「かきくえばかねがなるなりほうりゅうじ」になります。

 

作者は「正岡子規(まさおか・しき)」です。

誰が詠んだかは知らなくても、句を知らない人はいらっしゃらないくらい有名な句。

 

映像が目に浮かんでくる句です。

地平線の、あるいは山々のでしょうか、その向こうに沈もうとしている太陽が、法隆寺を始めとする奈良の街並みを照らしている映像が。

当時の土地の「のどかさ」のようなものも伝わってきて、牧歌的な雰囲気が読む人を包んでくれます。

 

柿をかじったところで、タイミングよく法隆寺の鐘が鳴ったよと言ってるだけなのですけどね。

因果があるかのように詠んでいるからか、不思議な雰囲気を醸しています。

 

子規の句は彼の優しさが伝わってきて好きです。

 

子規句集 (岩波文庫)

 

7. 落ち栗の座を定めるや窪溜まり

7句目です。

 

落ち栗の座を定めるや窪溜まり

 

読みは「おちぐりのざをさだめるやくぼだまり」になります。

 

作者は「井上井月(いのうえ・せいげつ)」です。

 

ダ・ヴィンチ 2015年7月号 05987‐07

私がこの句を知ったきっかけは、本の雑誌『ダ・ヴィンチ』でのお笑い芸人の「又吉直樹」さんと俳人「堀本裕樹」さんの対談だったかと思います。

井上井月を知ったのもこのとき。

 

落ちた栗が転がって、窪んだところで落ち着いたよ。

そういう句です。

放浪をしていた井月自身が居場所を見つけられたことも意味しているそうです。

 

この句は一目で気に入りました。

やはり映像が浮かんでくる句ですね。

栗の実が落ちる頃には木の葉も落ちていると思われることから、この窪溜まりは色彩に満ちているでしょう。

井月が居場所を見つけたのは秋、ということはそれまでには当然人生の春と夏があった訳です。

30代後半、伊那谷なる土地に姿を現すまでの過去の情報がない井月には、一体どのような人生があったのでしょう。

あれこれと想像させる句です。

 

ダ・ヴィンチ 2015年7月号 05987‐07

 

8. 咳をしても一人

8句目です。

 

咳をしても一人


読みは「せきをしてもひとり」になります。

 

作者は「尾崎放哉(おざき・ほうさい)」です。

 

五・七・五の韻律から外れている、いわゆる「自由律」と呼ばれるタイプの俳句です。

「せきをしてもひとり」は9音。

無理矢理に3分割すれば三・三・三の韻律になるのでしょうか。

分けることに意味がないくらい短い句です。

 

わずか9音の句なのに何でしょう、この強烈な侘しさと寂しさは。

不思議と映像も広がりますし。

この句に限らず放哉の句は、特に後期でしょうか、侘しさと寂しさを感じさせるものが多いです。

 

東京大学法学部でしたっけ、そこを卒業したいわゆる「超エリート」の放哉でしたが、卒業後の人生は上手くいかなかったようです

41歳で亡くなっています。

この人も井月のように放浪した俳人のようですね。

人生がうまくいかなくなって、小豆島に渡ってからですか、そういう侘しさと寂しさを強く感じさせる作風に変わっていくのでしょう。

詳しいことは知りませんけど。

 

障子あけて置く海も暮れきる

 

放哉でいうと、この句も好きです。

特に「海も暮れきる」の表現が。

 

尾崎放哉全句集 (ちくま文庫)

 

9. ふるさとはあの山なみの雪のかがやく

9句目です。

 

ふるさとはあの山なみの雪のかがやく


読みは「ふるさとはあのやまなみのゆきのかがやく」になります。

 

作者は「種田山頭火(たねだ・さんとうか)」です。

 

意味は、故郷もあの山々のように雪が輝いていることだろう、という感じでしょうか。

山頭火も放浪していた人ですから、故郷にはもう戻らない・もう戻れない、そういう思いをこの句に込めているかもしれませんよね。

そう思うと切ない。

 

この句は声に出して詠むと心地よいです。

今回挙げた句の中でも屈指の気持ちよさ。

心地よいリズムが生まれている理由は、助詞の「の」を続けている点でしょう。

おそらくですけど、山頭火はこの句を作るのに悩まなかったのではないでしょうか。

すっと浮かんだ言葉を素直に詠んだイメージを持ちます。

音の運びに淀みが一切ない。

 

この音の運びの淀みのなさは、山頭火の故郷への淀みない憧憬へとつながるよう。

それだけに諦めのような想いも伝わってきて、余計に悲しい。

 

この「の」を続ける手法は魔物です。

リズムを生むので良い句を詠んだ気になるのですよね。

私も何度も使いましたけど、まぁ上手くいかないです。

後日冷静になって読み返すと全然効いていないな、くどいなと思うことが多い。

 

10. うしろすがたのしぐれてゆくか

10句目です。

 

うしろすがたのしぐれてゆくか

 

読みはそのままですね。

 

作者は1つ前と同じ「種田山頭火」です。

 

実は一人一句と自分ルールを定めていたのですが、先ほど挙げた句と同じくらい好きなので、2句とも紹介してしまいます。

 

句は、雨が降ったり止んだりしている中を歩いていく自分の後ろ姿を詠んでいます。

実際には自分の後ろ姿は見えませんから、客観視しているのでしょう。

この情緒・情感、素晴らしいではないですか。

 

この句には「自嘲」と前書きがあるみたいですね。

自嘲の意味は自らを軽蔑して嘲ること。

僧侶の身でありながら酒に溺れお金に窮し、そのため托鉢の旅をする、そういう自らの行いや生き方を蔑んでいるようにうかがえます。

でも止められないという。

時雨は人生の比喩で、雨が降ったり止んだりの、つまり晴れのない・少ない人生を行く、山頭火自身を顧みるようでもあります。

 

山頭火の句を2句挙げました。

2句挙げましたが、山頭火の人生や作句の姿勢みたいなものは、私はあまり共感できないです。

 

山頭火俳句集 (岩波文庫)

 

11. 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

11句目、これが最後です。

 

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 

読みは「たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる」になります。

 

作者は「松尾芭蕉(まつお・ばしょう)」です。

トリはやはり芭蕉さんに務めていただきました。

 

名句にまみれた芭蕉さんですが、個人的にはこの句が好きです。

辞世の句なのでしたっけ。

「病中吟」との但し書きがあるそうで、厳密には世を去るときに詠まれたのではなく、結果的に人生最後の句になったようです。

 

旅の途中に病気を患って床に伏しているけれど、夢の中では金色に変わっている秋の原野を駆け巡っている。

う〜ん、何という叙情でしょう。

 

読み方は二通りあるでしょうか。

早く病気を治して再び旅に出たいと、再び旅に出ることを前提にしている読みが一つ。

生への渇望。

一方で、生への渇望はあるのだけれど身体が言うことを効かないと、嘆いている読みが一つ。

この場合は、自分の死期をある程度察しているように受け取れます。

私は前者だと思っています。

 

技術的に巧みなところは「夢は」の「は」でしょうか。

この助詞「は」を選んだことによって、叙情が増していると感じられるからです。

 

おわりに

ということで、私が好きな俳句11選をご紹介した記事でした。

 

もっと俳句に触れたいです。

 

 

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