ディスディスブログ

気分変調症の男がテレビ番組の感想やカメラ、ファッションのことなどを書きます

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面白い?つまらない?NHKでジブリアニメ『アーヤと魔女』が放送されたので観た感想を書きました

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2020年12月30日に『アーヤと魔女』なる3DCGアニメがNHKで放送されました。

スタジオジブリ』の作品でした。

事前に思っていたよりは面白かったです。

観た感想をあれこれ書いています。

 

以下、ネタバレ要素を含みますから、バレても構わない方のみ下にスクロールしてください。

 

目次

 

アニメ『アーヤと魔女』

アーヤと魔女』というアニメがNHK総合で放送されました。

 

アーヤと魔女 (ロマンアルバム)

 

わたしはダレの言いなりにもならない。

舞台は、1990年代のイギリス。
主人公は10歳の少女、アーヤ。赤ん坊の頃から孤児として育ったアーヤは、誰もが自分の思いどおりにしてくれる孤児院での生活がとても快適だった。
だから、誰かに貰われたいなんて、一度だって思ったことが無かった。
ところがある日、突然やってきた変てこな二人組、派手な女と長身の男に引き取られることになってしまう。

 

NHKの本作のwebページの「あらすじ」欄には上記引用部のように書かれています。

引用は一部です。

 

放送日時

放送日時です。

2020年12月30日の19:30から20:52まで。

 

ジブリ作品

本作は『スタジオジブリ』の作品です。

 

www.ghibli.jp

 

オープニング画面に「トトロ」のイラストが表示されていました。

ジブリ映画のオープニングに登場する、青地で黒い線でトトロが描かれている、あの画面ですね。

まさか日テレではない放送局でジブリが見られる日が来ようとは。

 

監督など

本作の監督は「宮崎吾朗」さんです。

企画は「宮崎駿」さんとありました。

親子共作ですね。

 

他、キャラクターデザインは「近藤勝也」さん、音楽は「武部聡志」さん。

 

歌は「シェリナ・ムナフ」さん

エンディングテーマの歌は「シェリナ・ムナフ」さん。

シェリナ・ムナフさんはインドネシアの女性シンガーソングライター、女優、歌手とのこと。

赤い色の髪をした、あの人はアーヤの母親でしょうか、彼女の声も担当していたようです。

1人だけえらい棒読みなので何事かと思っていたら外国の方でしたか。

それなら発音がおかしかったり棒読みだったりしても彼女の責任はないでしょうか。

 

ダイアナ・ウィン・ジョーンズさん

本作には原作があるようです。

 

アーヤと魔女

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ」さんによる同名小説ですか、それが原作とのこと。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんはジブリ映画『ハウルの動く城』の原作『魔法使いハウルと火の悪魔』などハウルシリーズの原作者さんでもあるのですか。

今回初めて知りました。

 

感想

ジブリアニメ『アーヤと魔女』を観た感想です。

 

1度しか観ていない

私は本放送を一度しか観ていません。

なのでセリフを聴き逃していたり、セリフや設定を忘れてしまったり理解を間違えていたりしている可能性があります。

その点ご留意ください。

 

思っていたより面白かった

冒頭にも書いたとおり、事前に思っていたよりは面白かったです。

 

私は、宮崎吾朗監督というとどうしても『ゲド戦記』を思い出してしまい、観る前から警戒する癖がついてしまいました。

個人的には『コクリコ坂から』は宮崎吾朗監督の最高傑作と思っています。

ここで少し評価を持ち直しました。

 

NHKで宮崎吾朗監督というと『山賊のむすめローニャ』があります。

実は私はローニャを全ては観ていませんで、途中で脱落した口です。

脱落したくらいですからローニャについても私の評価は低く、コクリコで少し持ち直した評価がローニャで再び落ちています。

 

以上のようなフィルターが私には元々ありました。

そういう意味で本作は事前に思っていたよりは面白かったです。

 

しかしフィルターを外して、純粋に物語として面白かったかと言えば面白くなかったです。

 

未消化なことが多すぎる

本作はいろいろなところで未消化な部分が多すぎるように感じられました。

映像作品は何でもかんでも説明する必要はないとは思います。

それにしても本作はあまりに未消化の設定が多く、「え、これで終わるの?」というところで終わってしまった感があります。

アリエッティ感と言いますか。

設定をすべて見せないというよりは、設定を深く掘り下げていない感と言いますか。

 

未消化な部分が多かったことは、後半が急ぎ足過ぎていたことも原因と思います。

本作の原作は途中で終わっているみたいです。

その影響も強くあるのでしょう。

 

これから気づいた未消化な部分、わからなかった部分を5つですか、書き出します。

 

1. 赤髪の魔女は母親?

ヒロイン「アーヤ・ツール(アヤツル)」を、孤児院へと放置した赤髪の魔女はアーヤの母親でしょうか。

 

素直に受け取れば彼女はアーヤの母親だと思うのですが、作中に明確にそれとわかるシーンやセリフはなかったように思います。

孤児院に預けたアーヤも、誰かから託された赤ちゃんだったかもしれません。

 

孤児院に預けるときにアーヤの母がしたためた手紙には「仲間の『12人の魔女』」と書かれていたみたいです。

そのことからアーヤの母が「12人の魔女」の1人であることは明らかと思います。

「ベラ・ヤーガ」も12人の魔女の1人かもしれませんが、こちらもはっきりとはわかりません。

 

2. 操る能力は魔法なのか?

アーヤが、自分を孤児院から連れ出した「マンドレーク」と先述した「ベラ・ヤーガ」を操れた力は「魔法」なのかどうか。

 

アーヤが言葉を操って人をも操った能力は、マンドレークやベラの使う魔法と同源なのか、という意味です。

この点が個人的に一番引っかかっているところです。

こちらも本編では明らかにされていなかったと記憶しています。

呪文を作るなどと言っていましたし、違うものなのでしょうけど。

 

3. アーヤの母が掟を破った理由は?

アーヤの母はどうして「12人の魔女」に追われているのでしょうか。

 

彼女は「12人の魔女」の掟を破ろうとしているみたいでした。

名前は「イヤウィッグ」でしたっけ「ハサミムシ」の意味だそうですけど、アーヤの母とベラとマンドレークのバンド「イヤウィッグ」を辞めるときにベラが言っていたことによれば。

 

それがバンドを辞めて「12人の魔女」に追われる理由なのでしょう。

しかし、それはあくまで「『12人の魔女』に追われる理由」であって、どうしてバンドを辞めたのか、掟を破ることになったのかは明らかになっていないと思います。

 

追われた理由はアーヤの父親が魔力のない人間だから、みたいな裏設定でもあるのでしょうか。

 

3. あの孤児院に預けた理由は?

アーヤの母はどうしてアーヤを「あの孤児院」に預けることにしたのでしょうか。

 

どうしてあの孤児院を選んだのか、本当に施設の部屋が綺麗で光が多く入り、食事が美味しいというだけが理由なのでしょうか。

それでは理由づけが弱いと思います。

 

12人の魔女に狙われているのなら、初めからマンドレークたちにアーヤを預けたほうが安全だったかもしれませんよね。

マンドレークたちに預けると魔女たちの目につくため、そういう意味での危険は増すかもしれません。

一方、孤児院の人たちでは「12人の魔女」たち襲われたときにアーヤを守れないのではと思います。

マンドレークとベラなら危険は増したとしても、守れる可能性もまた増すのではないでしょうか。

 

4. クリスマスの日に戻ってきた理由は?

物語のラスト、アーヤの母親はクリスマスの日になって、マンドレークたちのところへやって来ました。

その理由もよくわからなかったです。

 

孤児院に預けるときに書いた手紙には「12人の魔女から逃げ切れたら迎えにくる」とありました。

クリスマスの日までに「逃げ切れた」と受け取って良いのでしょうか?

その割にはエンディングのイラストでは、アーヤはまだマンドレークたちと3人で暮らしているようでしたが。

 

逃げ切る前にアーヤに会いに行っては危険が増す気がしません?

12人の魔女たちは自分たちのところにアーヤの母を引きずり出すために、アーヤを人質に取る危険はつきまとっていると思います。

 

よくわからなかったです。

重要なセリフを聴き逃したのかもしれません。

 

5. バンドの設定は必要だったのか

そもそも過去に「バンド」を組んでいた設定なんて必要あったのでしょうか。

私にはそういう部分こそ含みをもたせるだけで、詳しくは描かなくて良い部分に思えました。

 

宮崎吾朗さんのインタビューでは、バンドの設定はアニメオリジナルだと仰っていたと思います。

必要あったかなぁと今考えても疑問符がつきまといます。

 

アーヤは本名を「アヤツル」といい、原作では「EARWIG(イヤウィッグ)」という名前みたいですね。

アーヤの母とベラ、マンドレークがかつて組んでいたバンド名も「イヤウィッグ」です。

 

「EARWIG」は「ハサミムシ」のこと。

ハサミムシは人の耳から入ってその人を操るとか卵を産むとか、ヨーロッパでは言われていたみたいです。

迷信や民間伝承の類でしょう。

アーヤのチカラに通ずる話ですね。

アニメの監督さんたちは、アーヤの母が思い入れのあるバンド名を娘にもつけたことにしたかったのでしょう。

二重の意味があるんだよと。

 

私の感じた未消化部分については以上です。

 

エンディングは良かった

冒頭に「思っていたより面白かった」と書いています。

そう思えたのはエンディングによるものが大きかったと思います。

 

スタジオジブリ絵コンテ全集22 アーヤと魔女

エンディング中には、『となりのトトロ』のそれのように、アーヤたちの後日談がアニメではなくイラスト画で何枚も描かれていました。

それは本編の3DCGとは異なり手描きのイラストで、アーヤたちが本編以上に生き生きしているように見えて、良かったのですよね。

 

アーヤがマンドレークたちと楽しそうに暮らしていることがわかったので。

マンドレークたちもアーヤと楽しそうに暮らしていることもわかったので。

 

バンドの設定は、物語に幅や深みを持たせたかったから追加したのかもしれません。

しかし、私はバンドの設定など入れるくらいなら、猫のトーマスとの出会いと仲が良くなる過程だったり、クリスマスまでにマンドレークを操れるようになる過程だったり、エンディングのイラスト部分だったりを本編で丁寧に描いたりした方が良かったのにと感じました。

それこそ1クール12話の作品にでもすればよかった、手描き画で。

 

3DCGである理由

本作が3DCGである「理由」は何でしょうか。

本作に必要な技術だったか、私には不必要だったように思います。

 

背景や料理の映像は綺麗でした。

しかし人物がダメでしたね。

エンディングの絵ではアーヤは可愛かったのに、3DCGのアーヤは性格が悪いだけの女の子に見えてしまいます。

原因はおそらく黒目が小さくなる目つき、それと高くつり上がった眉毛でしょう。

 

本編とエンディングの絵を見比べた限りでは、『アーヤと魔女』は手描き作品の方が合ったのではないかなぁと感じられます。

3DCGが合う素材と合わない素材があって、ジブリ画というか宮崎駿画は3DCGは合っていないのかもしれません。

あえて3DCGに宮崎駿画を落とし込む必要はない。

 

ジブリはアメリカに評価されたくて仕方ないのかもしれませんけど、あえてピクサーなどと同じ土俵に上がることはないのではないかと思いますけどね。

日本は日本で独自に育まれた技術があるのでしょうから、それを突き詰めて行けば良いのではと。

 

よくわからないで語っていますけど。

 

様々な既視感

過去のジブリ作品に似た設定が本作には多く見られました。

例えば、ベラの絵柄が湯婆婆や荒地の魔女のようですし、黒猫のトーマスが人間の言葉を話す様子はジジのようですし、ドアをあけると行き先が変わる様子はハウルの居城のようですし、マンドレークたちの家の庭に生えた草などはアリエッティのようでした。

それはオマージュと言えば聞こえは良いですが、オリジナリティに欠けるとも言えるでしょう。

 

既成概念を超えない 

また、魔女というと大きな窯で何かをぐつぐつ煮込んでいるイメージが、私にはあります。

 

クラシエフーズ ねるねるねるねライフガード味 18g ×10個

「ねるねるね~るね」のテレビCMみたいな。

本作の魔女たちは、そういった魔女というものはこうあるべきだという既成の価値観なり概念なりから抜けきれず、オリジナルの要素が見られなかった点は残念でした。

 

キャラクターの表情もわざとらしいと言いますか、作り手の意図が透けて見えてしまうシーンが見受けられました。

アーヤのしたり顔をするところなど、こうすればイタズラな表情になるよね、小悪魔的でしょ感が。

せっかく3DCGで描いたのですから、そういうテンプレートから抜け出た独自表現を見たかったです。

 

それに確かロックバンドの設定も、物語の舞台が1970年代、80年代だったかも、だから当時はロックが流行っていたことが採用の理由だと、吾朗監督がどこかで仰っていた気がします。

そういう設定も上っ面と言いますか安易で短絡、監督ご自身の狭い価値観から抜けられてないところから来た発想と個人的には感じられます。

 

悪役はいない?

本作は、アーヤとベラとマンドレークが紆余曲折の末に家族のような関係になるお話、そう受け取りました。

 

登場人物に悪役はいないです。

「12人の魔女」も本質的には悪人ではないです、たぶん。

 

いないと書いていて矛盾しますけど、物語の終盤に入るまではベラとマンドレーク、特にベラがアーヤにとっての悪役になっています。

ベラはアーヤのことを呪文作りのための助手というより、召使いのようにしか見ていませんでしたし、扱いもよくなかったですよね。

 

ところがそのベラは終盤になると急に優しい人になりました。

理由はマンドレークに激怒されたから。

マンドレークが怖いから、だからアーヤへの接し方や扱い方を変えた、それだけに私には見えました。

 

2人の間で信頼関係が構築されたことがベラの態度が軟化した理由ではないので、展開が唐突すぎて違和感があったのでしょう。

例えば、それこそ「12人の魔女」やその手下を撃退していく中で信頼関係を築けた、みたいなことで3人が家族になっていくのならわかるのですが。

だからこそ余計に、エンディングのイラストで描かれた普段の生活の様子から少しずつ信頼関係が構築されていく様子を、本編でも描いて欲しかったと私は思ったのでしょう。

家族になる物語であるなら尚さら家族愛を描いて欲しかった。

 

「操る」の違和感

アーヤの本名は「アヤツル」です。

言葉を操り、人や動物、魔物をも操る能力があるということなのでしょうか。

 

それがあるから、孤児院でも院長や料理長なども自分の意のままに操れるし、マンドレークたちも操れたと。

先述したように、あのチカラが魔法かどうかは本編ではわかっていなかったはず。

 

しかし、自分の思いどおりに大人たちを動かせたことを「操る」などと表現することが適切かどうか、個人的には大いに疑問です。

院長や料理長、マンドレーク、ベラたち大人を「操った」ことにしてしまうと、アーヤがただ性格の悪い子になってしまいます。

 

本作はどちらかというと児童向けの作品でしょう。

児童向けの作品というのはそういうことを伝えるものではない、むしろ、その逆に人を自分の思い通りに操るなんてことをしてはいけないよ、と伝えた方が良いのではないでしょうか。

 

あれでは「大人ってチョロいよね」と言っているだけの作品になってしまいかねません。

と言いますか私の目にはそういう作品に映りました。 

 

救いは「操る」行為が他者を陥れることばかりに使われていない点でしょう。

ベラは終盤に大変な目に遭っていましたけど、基本的にはアーヤが操った結果、皆が幸せになっていますし、大人たちもアーヤに操られていることにある種の心地よさを覚えているみたいですし。

 

操る設定は原作から存在するでしょうから、アニメではどうしようもないことかもしれませんね。

こちらは原作への感想になるでしょうか。

 

おわりに

ということでNHKでジブリアニメ『アーヤと魔女』が放送されたので、観た感想を書いた記事でした。

 

私の理解や解釈が間違っていたら申し訳ありません。