Eテレ『100分de名著』、2020年12月度は「ピエール・ブルデュー」の『ディスタンクシオン』です。
2020年12月7日の放送の最後に、興味深いお話を聞きました。
目次
Eテレ『100分de名著』
Eテレ『100分de名著』とはどのような番組でしょう。
一度は読みたいと思いながらも、手に取ることをためらってしまったり、途中で挫折してしまった古今東西の“名著”。
この番組では難解な1冊の名著を、25分×4回、つまり100分で読み解いていきます。
公式Webサイトの「番組について」ページの一部を抜粋しました。
放送局
放送局について。
『Eテレ』です。
放送時間
放送時間について。
毎週月曜日22:25から22:50まで。
再放送は毎週水曜日05:30からと、12:00からの2回あります。
不定期で深夜や土日の午後にも放送されることがあったと思います。
出演者
出演者について。
メインMCは「伊集院光」さん。
アシスタントは「安部みちこ」NHKアナウンサー。
そして各月で扱われる作品の解説者の先生方、朗読担当の方、主に俳優さんです。
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』
2020年12月度は「ピエール・ブルデュー」の『ディスタンクシオン』です。
ブルデューはフランスの社会学者とのこと。
1930年生まれで、2002年に亡くなっている方です。
なぜ「格差」や「階級」は生まれ、どのようなメカニズムで機能し続けているのか? この大きな疑問に回答をもたらそうとした名著があります。フランスの社会学者、ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」。20世紀でもっとも重要な社会学の書10冊にも選ばれた名著です。階級や格差は単に経済的な要因だけから生まれるわけではありません。社会的存在である人間に常に働いている「卓越化(ディスタンクシオン)」によってもたらされる熾烈な闘争の中から必然的に生まれてくるといいます。番組では、この名著を読解することを通して、知られざる階級社会の原因を鋭く見通すとともに、「趣味」と「階級」の意外な関係を明らかにしていきます。
webサイトのブルデュー『ディスタンクシオン』の内容の一部抜粋です。
上記引用部のように書かれています。
第1回はブルデューが編み出した「ハビトゥス」という概念についてでした。
また、私たちの趣味や趣向が、学歴や出身階層によっていかに規定されているかについても言及されていました。
指南役の先生は「岸政彦」さんです。
岸さんは立命館大学の教授で社会学者。
作家でもいらっしゃるそう。
著書には『断片的なものの社会学』や『マンゴーと手榴弾』等があります。
私は、沖縄の風俗についてネット記事を読んだときに、岸さんのお名前をお見かけした記憶があります。
歴史なり政治なり文化なりと絡めて、なかなか複雑なことをお話されていたような。
重力の法則があるから飛べる
『100分de名著』2020年12月度、ブリュデュー『ディスタンクシオン』の第1回の放送の終わりに、個人的に興味深い内容がありました。
それはブルデューの言葉として岸さんが紹介していた「重力の法則があるから飛べる」というものです。
岸さん(以降敬称略)「重力があるからそれを使って飛行機は飛べる」
岸「社会に規定されて生きていることを知るところからしか自由は生まれない」
伊集院「古典落語って不自由なものですよ、決まりがストーリーが元々あるから」
伊集院「それは今若手が作っているコントの方が個性が出るような気がするんですけど、でも古典落語のある程度のルールみたいなものがわかってくると、うわっ、この人自由にやってるなとかとても無限大なんだみたいになるんですよね」
岸「型の中で自由に振る舞うのが自由の本質」
岸「沖縄の琉球舞踊のすごく有名な方にインタビューをしてすごく感銘を受けたことがあって、めちゃくちゃ練習するんですけど半分は型を覚えるためにして、あとの半分は型を忘れるために練習するですということを言ったことがあって」
岸「でも型があるってことを忘れるくらい、型を身体に叩き込んだ上で自由が初めて生まれるだということです」
岸「社会的な行為も人生も一緒だと思うんです」
原文ママではないかもしれませんけど、概ねこのようなことを話していらっしゃいました。
ファッションに通じるかも
私は岸さんのこのお話を聞いて腑に落ちたものがありました。
ファッションにも通じると感じたのです。
私は古着が好きです。
ファッションが好きとも言えるでしょう。
日ごろ街を歩いていて、他人のファッションも目に入ってきます。
そこで「ん〜」とモヤモヤする服装の方に出会うことがあります。
当人は自身をオシャレと思っている節がある、でも私にはそうは見えない、そういうときに私はモヤモヤしているようです。
オシャレに興味がなさそうに見える方には全くモヤモヤしません。
その方が私の価値観と違うだけで、私の価値観と合っていないからと言うだけでその方がオシャレと思わない、ということでは説明がつかないモヤモヤ感でした。
と言いますのも、私は古着、60〜80年代のアメリカ古着が好きですけど、そのジャンルに入っていない方でもオシャレに見える人は見えますから。
しかし、先ほど書いた岸さんの「重力があるからそれを使って飛行機は飛べる」や「型の中で自由に振る舞うのが自由の本質」の言葉を聞いて、あっ、このことだと腑に落ちたのです。
私はファッションにも型があると感じています。
アメカジならアメカジの型、ワークならワークの、ミリタリーならミリタリーの、70年代なら70年代の型、そういうものがあると。
素材の組み合わせ、肌や目の色を含めた色の組み合わせ、サイズ感の型、もあるでしょう。
服が好きな人って、ファッション雑誌を購読したり、お店にも訪れたり、お店の店員さんの服装や知識を得たり実物に触れたり着たり、行き交う人々の服装を見たり、ファッション関連のwebサイトやアプリをしばしば閲覧したりしますよね。
その中で様々な情報が入ってきますから、学ぼうとして学んでいるのではなく、知らず識らずのうちにファッションの型を学んでいる方も多いことでしょう。
私は好きな年代の映画やドラマ、雑誌、広告、カタログ、写真などを見ることも好きなので、そういうところからも得ていることも多くあるはず。
もちろん学ぼうとして学んでいる方もいらっしゃるでしょう。
意識的・無意識的に学んだファッションの型がベースにあって、型に従った上で自分のキャラクターや身体サイズに合わせて工夫をしている方の服装は、私にはオシャレに見えます。
逆に従っていなかったり知らなかったりする人があれこれ工夫している服装には、私はモヤモヤすることが多い気がします。
私のモヤモヤの正体はこのことだと、岸さんの言葉で気がつきました。
当ブログ「貧乏古着」カテゴリでは、毎回のように同じような着こなしを提案していると思います。
これは面倒であることも拭い難い事実ではあるものの、アメリカ古着の型があるから似たような提案になるものでもあります。
しかし、同じ服を私が着た場合とあなたが着た場合とでは同じ印象にはならないはずです。
同様に、同じ型の服であってもカラーが異なれば、あるいはサイズが異なれば、はたまたその両方が異なれば、これもまた同じ印象にはならないはずです。
そこがファッションの難しくも面白いところですね。
おわりに
ということでEテレ『100分de名著』のピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を観ていたら、ファッションにも通じることが扱われていると感じたことについて書いた記事でした。