NHK連続テレビ小説『半分、青い。』、2018年8月2日放送の106話はリョウちゃんと祥平と光江と麦の四者面談でした。
以下、最新話のネタバレ要素がありますので、バレても構わない方のみ下方スクロールをお願いします。
目次
『半分、青い。』第18週「帰りたい!」
2018年7月30日月曜日から朝ドラ『半分、青い。』の第18週「帰りたい!」の放送が始まりました。
物語の舞台は東京、時代は2000年(平成12年)。
本作のヒロインは「楡野鈴愛(にれの・すずめ、演:永野芽郁)」です。
鈴愛は楡野家の長女。1971年(昭和46年)7月7日生まれの、第17週現在29歳と思われます。
第16週でしたか、後述する森山涼次と結婚して「森山鈴愛」になっています。
第17週には涼次との子どもも生まれ、「花野(かの)」と名付けています。
女の子です。
鈴愛の実家の楡野家は、岐阜県にある東美濃市、東美濃(ひがしみの)という架空の町の、梟(ふくろう)商店街という場所で「つくし食堂」を経営しています。
鈴愛の母が「楡野晴(にれの・はる、演:松雪泰子)」、父が「楡野宇太郎(にれの・うたろう、演:滝藤賢一)」、弟が年子の「楡野草太(にれの・そうた、演:上村海成)」、祖父が「楡野仙吉(にれの・せんきち、演:中村雅俊)」です。
祖母「楡野廉子(にれの・れんこ、演:風吹ジュン)」は、1980年時点で既に他界していて、空の上から声(ナレーション)のみの出演に変わっています。
鈴愛と同じ日同じ病院で生まれた幼馴染みが「萩尾律(はぎお・りつ、演:佐藤健)」です。
律の母が「萩尾和子(はぎお・わこ、演:原田知世)」、父が「萩尾弥一(はぎお・やいち、演:谷原章介)」で、律の家は写真店「萩尾写真館」を営んでいます。
鈴愛と律の同い年には「ブッチャー」こと「西園寺龍之介(さいおんじ・りゅうのすけ、演:矢本悠馬)」と、「木田原菜生(きだはら・なお、演:奈緒)」がいます。
ブッチャーの家、西園寺家は不動産屋を経営しているお金持ちの家です。
父が「西園寺満(さいおんじ・みつる、演:六角精児)」で、母が「西園寺富子(さいおんじ・とみこ、演:広岡由里子)」、姉が「西園寺麗子(さいおんじ・れいこ、演:幸田雛子)」です。
菜生の家は梟商店街の洋品店「おしゃれ木田原」です。
菜生の父は「木田原五郎(きだはら・ごろう、演:高木渉)」、母が「木田原幸子(きだはら・さちこ、演:池谷のぶえ)」です。
「岡田医院」の院長「岡田貴美香(おかだ・きみか、演:余貴美子)」も登場します。
鈴愛が小学3年生時、おたふく風邪が内耳に感染して急性発症する「ムンプス難聴」なる症状を起こして、左耳を失聴しました。
1999年か2000年かに、鈴愛は結婚をしています。
結婚相手はリョウちゃんこと「森山涼次(もりやま・りょうじ、演:間宮祥太朗)」。
映画会社「クールフラット」の代表で映画監督の「元住吉祥平(もとすみよし・しょうへい、演:工藤工)」の弟子、助監督です。
しかし2002年時点でリョウちゃんは映画監督になる夢を諦めています。
鈴愛は漫画家を辞めて以来、フランチャイズチェーンの100円均一ショップ「大納言(だいなごん)」でアルバイトをしています。
2002年時点ではリョウちゃんも大納言で鈴愛と一緒に働いているはず。
大納言のオーナーが藤村三姉妹で、次女「藤村光江(ふじむら・みつえ、演:キムラ緑子)」と三女「藤村麦(ふじむら・むぎ、演:麻生祐未)」と末っ子「藤村めあり(ふじむら・めあり、演:須藤理彩)」の3人。
100均になる前、お店はオーダーメイドの帽子屋で、光江は帽子教室「3月うさぎ」を開いていて、麦は野鳥オタク、めありは不明です。
光江は結婚経験があるものの今は一人、麦は未婚、めありは既婚ですが別居状態にあるようです。
漫画家時代の仲間の、漫画家として有名になったボクテこと「藤堂誠(とうどう・まこと、演:志尊淳)」と漫画家を辞めて結婚をした「小宮裕子(こみや・ゆうこ、演:清野菜名)」とは17週現在でも交流があります。
鈴愛の漫画の師匠「秋風羽織(あきかぜ・はおり、演:豊川悦司)」と、秋風の秘書「菱本若菜(ひしもと・わかな、演:井川遥)」とも同様です。
大納言の雇われ店長は「田辺一郎(たなべ・いちろう、演:嶋田久作)」さん。
新シェフ&店長「草太」
年が明けて2008年の正月。
この時点で、鈴愛の実家の食堂「つくし食堂」には大きな変化が起こっていました。
以前、店はモータリゼーションの波が押し寄せ斜陽を迎えていて、一時は仕出し弁当などにも手を広げて何とか苦境を乗り切ろうとしている様子が、これまでに何度か描かれていました。
……が、2007年現在、店は大盛況です。
鈴愛の弟・草太が食堂の新シェフとなり、また店長として働いています。
名古屋のチェーンのレストラン「エッグシェフ」は辞めています。
その草太が考案した特製「カツ丼」が大当たりして、店の外に行列ができるほどです。
つくし食堂、特製カツ丼のお値段は800円也。
草太のカツ丼の材料のうち、和風だしの材料が「鰹と昆布のだし汁」が120ml、「水溶き片栗粉」「酒」「みりん」がそれぞれ大さじ1杯、「塩」小さじ1/3杯、「醤油」小さじ1/4杯です。
作り方は、卵2個分を使ってメレンゲを作る、それを和風だしの餡と混ぜ合わせて、卵の黄身を1つ乗せ、撹拌してふわとろソースを作って、椀にご飯を乗せた上にかけ、揚げたてのカツを乗せて、中濃ソースをかけて出来上がりのようです。
玉ねぎは入れません。
『あさイチ』のオープニングトークでは、朝ドラ受けのトークがありました。
そこでMCを務める「博多華丸・大吉」さんが、自分はカツ丼にはやっぱり玉ねぎを入れたいとか何とか言っていましたね。
凄くわかります。同意。
あくまで好みではありますが、オーソドックスというかベーシックというか、そこで美味しいものを作ることが本物の料理人としての技ではないかと。
話が少し逸れましたが、草太は婚約者だった「里子(さとこ、演:咲坂実杏)」さんと2008年時点で既に結婚をしています。
草太と里子さんの間には男の子も生まれています。
「大地(だいち)」という名前です。
草太たち家族3人は食堂から歩いて10分のところに居を構えています。
涼次のその後
弟夫婦が幸せな時間を過ごす一方で、姉の鈴愛は離婚危機に直面しています。
涼次が映画監督になる夢を再び追う決断をし、中途半端なことではやり切れないからと、離婚まで申し出ていました。
涼次の覚悟は固く、藤村の3オバにも映画監督になることと離婚をする旨を伝えています。
次女の光江さんからは、涼次の亡き母(光江にとっては姉)の代わりとビンタをされ、家から出て行けとまで言われ、涼次は家を出ています。
出ていくと言っても行く宛は元住吉祥平の家しかありません。
光江と三女の麦が祥平の家を訪れると、案の定涼次はそこに居候していました。
四者面談が始まり、帰ってくるよう説得を試みても涼次の意思は固く、家に戻ることはなさそうです。
僕にとって、『恋花火』の監督を務めることは一世一代のチャンスで、人生でもう二度とこんなチャンスは巡ってこない、だから人生を賭けても惜しくないのだと。
映画は成功させたいしこれ1本でも終わりたくない。
でも家族がいると家族のことで自分が一杯になる、自分が映画監督になるためには普通の場所に居ては駄目なのだと。
私生活も仕事も両立できる人はよほど才能がある人で、自分には無理だと。
そのためには家族を捨てる。
光江さんの言動が真逆の違和感
どうして光江さんは前回涼次に家を出て行けと言ったのに、今回家に戻るように言っているのだ、と私は見ていて思いました。
しかし、よくよく考えれば(というほど考えていないですけど)、家には残された妻と子がいるのです。
特に花野はまだ5歳ですから、光江さんたちが真逆とも思える行動を執る理由もわかりますね。
家族より大事なものなんて他にはない、それが光江さんの考えです。
涼次とは平行線。
やっぱりわからない
やはり今回も涼次の主張はわからないです。
私の回りの、本物のクリエーターたちは、やはり、家族を持つことが出来なかったんです。それは、どうしてか、っていうと、「孤独」で「ひとり」でないと、立ち上がらないものがある、と私なんかは思います。
— 北川悦吏子 (@halu1224) 2018年8月1日
この一年半、私は家族を捨ててたのも同然です。なにも関知しなかった。そうじゃないと書けなかった。こんなハンパな作家の私ですら、そうなんです。友人の脚本家もやはり、別居しました。物を創るって、隣にいる人からしたら、「罪」なんだ、と思っています。そしてその本人も辛い。創るだけでつらい。
— 北川悦吏子 (@halu1224) 2018年8月1日
脚本を書いた「北川悦吏子」さんはこのように仰っています。
涼次の主張はこういうことみたいです。
涼次の主張、あるいは北川悦吏子さんの主張は、涼次が鈴愛と結婚をしていなければ、子どもを作っていなければ、今回の彼の決断で良いと私は思います。
しかしながら、今の涼次には妻がいて子どももいて、子どもはまだ5歳なのです。
結婚をしたのも、子どもを作ったのも、彼自身が決断したことのはずです。
結婚と子どもを作る決断には大きな責任が伴います。
妻の、子どもの人生が関わるのですから。
光江さんが言うように、涼次がしようとしていることは文字通り家族を捨てることです。
結婚前に目指した夢と、結婚後に再び追い求める夢、これを全く同じものと捉えてはいけないのではないでしょうか。
本当に孤独にならなければ脚本を書けないのか?
では『名前のない鳥』の脚本も『恋花火』の一人身でなければ書けないのでは?
2作品とも鈴愛がいる、鈴愛と花野がいるときに書いていますよね。
書けているじゃないですか。
また、北川さんはTwitterで「私は家族を捨ててたのも同然」と仰っていますが、書いている間に離婚をしたのですか?
そうじゃないでしょう。
北川さんのように「家族を捨てたのと同然」と、涼次がしている実際に「家族を捨てる」ことはイコールではない、そこには雲泥の差があります。
家族に干渉をしないけど離婚もしていないのと、法的に離婚をする・一人になるのと一緒には語れないですよ。
あなた結婚しているじゃないですか、脚本を書くために離婚をしてはいないんですよね、という。
北川さんの仰る「本物のクリエーターたちは、やはり、家族を持つことが出来なかった」という意見もわかりません。
「家族を持つことが出来なかった」ことと「家族を持った人が家族を捨てる」ことを一緒くたに語るべきではないでしょう。
先ほども書いた通り、そこには家族の人生が絡むから。
氏の言っていることは、家族を持つことができなかった本物のクリエーターは、作品作りのために結婚相手や子どもを捨てることになるから、結婚をする選択肢をあえて選ばなかったという意味になりませんか?
それを、涼次のような結婚をしたけれど作品作りのために離婚をするし親権も持たないことと一緒にしては、氏の仰るところの「本物のクリエーター」に失礼でしょう。
それに、家族を持つことで得られるものだってきっとあると思うんですよね。
家族がいることから生み出される作品だってきっとあるはず。
孤独にならなければ作品を生み出せないと言うのなら、やはり涼次はそもそも結婚をすべきではなかったし、子どもも作るべきではなかった。
結婚をした&子どもを作ったのなら、映画を諦めるか、俺が家族を養うんだと意気込んで映画を作るか、しなければいけないでしょう。
それが責任というものだと私は思います。
おわりに
最後、鈴愛は自然と律の家に電話をかけていました。
結局、鈴愛はこの期に及んで尚、律に迷惑をかけるのですね……。
自分の都合の良いときだけ(悪いときだけ?)。
安西先生の「まるで成長してない」を思い出します。
律には何が何でも鈴愛から電話をしてはいけないでしょう。
形としては自分へのプロポーズを断った相手、自分が振った相手ですよ?
律にも家族がいるのに、身勝手すぎます。
いや、律の実家に電話をしたのでしたか?
それなら事情は異なりますか。
また、涼次と鈴愛の言動に対しては、ゲーム『DDSアバタール・チューナー』の、ゲイルの台詞が頭をよぎります。
「理解不能だ」
律の母親、和子さんは何やら病気にかかっているようでした。
こちらも心配です。