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ディスディスブログ

気分変調症の男がテレビ番組の感想やカメラ、ファッションのことなどを書きます

『100分de名著』の「中原中也」回で太田治子さんと穂村弘さんの「月夜の浜辺」「サーカス」などの解釈が語られました

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毎週月曜日22:25よりEテレにて放送されている教養番組『100分de名著』、2017年1月度は詩人「中原中也(なかはら・ちゅうや)」でした。

 

 

目次

 

 

Eテレ『100分de名著』

 

www.nhk.or.jp

 

一度は読みたいと思いながらも、手に取ることをためらってしまったり、途中で挫折してしまった古今東西の“名著”。
この番組では難解な1冊の名著を、25分×4回、つまり100分で読み解いていきます。

公式Webサイトの「番組について」ページの一部を抜粋しました。「偉大な先人の教えから、困難な時代を生き延びるためのヒントを探る」番組です。

毎月ある名著を取り上げて、その作品や著者を出来る限り掘り下げていきます。25分番組を月4回放送して100分で収めている番組です。

月曜日が5回ある月は、5週目は4週目の再放送です。元々再放送は毎週水曜日の05:30と12:00の2回あるので、月曜日が5回ある週は再放送だらけになります。

司会はタレントの「伊集院光(いじゅういん・ひかる)」さんと、NHKアナウンサーの「礒野佑子(いその・ゆうこ)」さんです。伊集院さんの頭の良さ・勘の良さがよくわかる番組です。

 

 

2017年1月度は「中原中也」

2017年の一人目、1月度は詩人の「中原中也(なかはら・ちゅうや)」でした。作品名ではなく人にフォーカスが当たっています。

 

中也の代表作「生い立ちの歌」「月夜の浜辺」を読み解いていくと、「悲しみ」や「さみしさ」という感情が幾重にも織りつむがれた複雑なものであることをあらためて感じさせてくれる。そして何度も繰り返されるリフレインは、まるで包み込むようにその「悲しみ」「さみしさ」を鎮めてくれる。中也は、「悲しみ」「さみしさ」をさまざまな言葉でつむいでいくことで、私たちにその感情の奥深さをあらためて教えてくれるのだ。

こちらは第3回の放送内容です。個人的に中也の『100分de名著』はこの第3回が最も面白く感じられました。「生い立ちの歌」と「月夜の浜辺」の名前が書かれていますけど、放送では「サーカス」も扱っています。

番組の指南役は「太田治子(おおた・はるこ)」さんでした。小説家「太宰治(だざい・おさむ)」の娘さんです。太宰と中也は交流があったことも第1回でしたか、語られていました。太田さんは中也の方が好き(人間か文章かは忘れました。後者でしたか)と言っていました。

第3回と第4回の2回の放送は、太田さんに加えて歌人「穂村弘(ほむら・ひろし)」さんも出演していて、話に加わっていました。

 

 

中原中也とは?

中原 中也(なかはら ちゅうや、1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)は、日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村。夭折したが350篇以上もの詩を残し、一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』、『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』を出版するなど、フランス人作家の翻訳もしている(他に少量だがアンドレ・ジイドほか)。日本大学予科、中央大学予科などを経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。

中原中也 - Wikipedia

中原中也のWikipediaにはこのように書かれています。今年2017年は中也の生誕110年、且つ没後80年の切りの良い年なんですね。

亡くなってから80年経っているということは、『青空文庫』に中也の作品が掲載されています。気になる方は検索をかけてみてください。「生い立ちの歌」は「生ひ立ちの歌」ですね。

 

 

中原中也「サーカス」の解釈

中原中也の『100分de名著』第3回に扱われた詩の一つに「サーカス」があります。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」ですね。

この解釈について、太田さんは「ブランコの恐怖感がユーモラスで楽しいものに変わってきて、その中にペーソス、悲しみも感じますね」と仰っていました。

穂村さんはテクニック面について「『ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん』はびっくりするような独創的なオノマトペだけど、リズム的にはちゃんと7・5の範囲内でやっているから、サーカスの揺れるブランコのリズムと七五調のリズムを響き合わせるっていう意図なのか、無意識のセンスなのかが凄くある。これは天性といえば天性のリズム感かもしれないし、テクニックとは区別できない領域と思いますが」

「(ゆあーんゆよーんゆやゆよんの独創的な言語感覚)一歩でもやりすぎるとそれは無理だって今度は思われちゃうんですね、こういうオノマトペって。何かそうじゃないよブランコは、って言われちゃうから、このギリギリの線っていう感じがします」「中也は『言葉の運動神経』が凄く良い人」と仰っていました。

解釈は人それぞれあって良いもので、これが正解というものはないですけど、太田さんのご意見も穂村さんのご意見もとても興味深いものでした。確かにペーソス、ペーソスとは哀愁みたいなものですが、それを感じますし、「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」の言語感覚についても成る程と思わせるものがあります。絶妙なんですね。

 

私の解釈

私はこの「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」は、単にブランコの揺れを表している言葉ではなく、舞台を変える役割があるのではないかと思っています。

一人称(書き手や読み手)が空中ブランコの更に上にあるはサーカスの天井の、薄汚く汚れた生地が見えてしまった瞬間に、ブランコが揺れる「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」の音と共に目の前の空間がぐにゃりと歪み、次の瞬間、一人称はサーカスという非現実から現実へと引き戻されてしまった、その舞台変化の装置としてオノマトペが使われているように感じます。

人間の、ノスタルジアに浸りたいという気持ちの悲しさが、痛いほど伝わってくる詩ですね。現実から逃避すればするほど、非日常に浸れば浸るほど、暗い現実に引き戻されたときに辛くなっていくあれです。良い映画を見た後や良い本を読んだ後、旅行の帰りのあれ。

 

 

「名辞以前」とは何か?

また第3回では「名辞以前(めいじ・いぜん)」という中也の言葉が取り上げられていました。

明治以前ではありません、名辞以前です。「名辞(めいじ)」とは、概念を言語化すること、のようです。

『芸術論覚え書』という中也の芸術論を述べたものがあるそうです。私は読んだことがありませんでした。この中で中也は「名辞以前」のことを書いているようです。

 

「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。

- 『芸術論覚え書』

これが「名辞以前」のことだそうです。

穂村さんは「名辞以前」について下記のように説明していました。

「例えば『悲しい』と口に出す前に悲しみとか、『好きだ』って口に出す前の想いとか、そういうものってありますよね」

「それでそっち(口に出す前)の方が純粋で、実は。『悲しい』とか『好きだ』って言ってしまった瞬間から、もうそれは何か言葉にするとその感情は『この世のもの』になっちゃうっていうのかな」

「秘めていたときの無色透明の純粋さが失われる、みたいな感覚は我々にもあると思うんですけど、でも言わなきゃどうしようもないから、『手』とか『悲しい』とか『好きだ』とか言って暮らしているけど、中也はそのことに凄く潔癖にこだわったっていう印象がありますね」

……ということです。番組によると、「名辞以前」とは「言葉になる前の世界」であり、中也はそれを追究していたのではないか、とのことでした。

なるほど、本当にそうですね。好きなんて言葉じゃ全然足らないくらいに好きなときにどのように表現をすれば良いか、それがわからず・見つからずにもどかしい想いをした経験が私にもあります。初めて女性とお付き合いをしたときに。

好きという言葉ではあまりに俗過ぎて、手垢がつきすぎてしまっていて使いたくない、という気持ち。

 

 

おわりに

穂村さんは「月夜の浜辺」が好きな詩なのだそうです。私はこれまで気にとめていなかったです。

ボタンは洋服についていないと役に立たない、そんなボタンが月夜の浜辺に1個落ちている、ボタンからするとその状況は「アウェーな状態」で、そこにいる限りボタンとしての役割が全然果たせない、だけどそれが不思議な魅力に繋がっている、孤独な場所に落とされたボタンが別の存在感を持ち始める、と仰っていました。

太田さんは「誰にでも捨てられないボタンがあるということなんでしょうかね」と仰っています。

このボタンは何故落ちていたのか、誰が落としたものか、流れ着いたものか、答えは詩の中には書かれていません。「島崎藤村(しまざき・とうそん)」の「椰子の実(やし・の・み)」を想起させる詩のようでもありますが、私はこのボタンの持ち主は2歳で夭逝した中也の子どものものかな、と思ってしまいます。それなら捨てられる訳がない。

『100分de名著』の中原中也は4回が4回ともとても面白かったです。特に前述したように第3回が一番良かったので、この回の録画データは保存しておくつもりです。「名辞以前」、良い言葉を知りました。

 

dysdis.hatenablog.com